ドライブ・マイ・カー

大体いつも「大丈夫です」「平気です」「はい」そればっかりだ。心の底では辛いしんどい無理なのに。他人の手を煩わせたくない、そんなことで落ち込まない、迷惑かけないんだ、いつもそんなしょうもないプライドを守って、衝突を避けた。そんなことをしているうちに、自分の本心から目を背ける癖がつき、衝突はいつのまにかこじれた。本心の言葉、外向けの言葉の乖離が大きくなって、いつしか外向けの言葉を自分の本心の言葉と誤解した。

 

私は悲しかったです、つらかったです、苦しかったです、あんなに言いたがらなかったのに、ふと、するりと出たその言葉が生きづらさの大元だった。そういう経験がある。ドライブ・マイ・カーは、3時間の中に私の24年間の中のつらかった時間がそっくりそのままあった。

 

「鏡」で続くこの物語、1人の人の中で起こる感情抜き・感情ありの対比も、なんだかどんな瞬間も1人の人であることを表している気がした。演出の難しいところだとかは分からないし、自分の経験と物語を混同するのもズレてるのかもしれないけど、でも、私の時間は確かにそこに、そのままあった。

 

恐らく人並みより感受性が乏しい自分にとって、初めて心から涙が出た映画だった。ありがとう。

 

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ニューアカオ

という建物が「死ぬ」。(建築当時は)政治家の黒い金が相当動いていたという件やら今の建築基準法やら、時代の変化やらで、もう同じものは建てられないという。

 

生きていた頃のニューアカオは知らない。しかし、確かにもう死んでいた。隠しきれない客室の床の不陸や水回りの異臭、サビだらけのプール。人を泊らせるにはあまりにも不憫だと言うのかもしれない。しかし、バブルの時代を感じる潮騒のようなダンスフロアや鯉が泳いでいたんだろう飛び石を渡って行くカウンター、貴族のパーティーを思わせる見たこともない大きさの会場など、今もなお客を待っているような場所もあった。さも生きているように見えるそれらから、老人の目の奥のような、微かでありながら強いプライドを感じた。

 

廊下に一直線に並ぶ客室から、子供がはしゃぐ声や儚い愛の言葉などが聞こえた気がした。ダンスフロアの靴の跡の傷から、キラキラした赤いドレスが見えた気がした。知るはずもないたくさんの他人の思い出の残像が、そこには確かに存在した。人の言葉や記憶は曖昧で、忘れたらすぐに影も形もなく消えてしまう。しかし、ニューアカオには、それらが嫌というほどたくさん、当時のそのままの状態で、あった。

 

そんな思い出の残像すら、もう、消えてなくなる。私はそのたくさんの輝きをずっと覚えていたくて、無心でシャッターを切った。冒険のようなワクワクの一方でやっぱり皆どこかショックで葬式みたいだった友達との空気も、私達のニューアカオの思い出として、忘れない。

 

 

ニューアカオよ、永遠に!

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父の表現

昔は殆ど話さなかった父と最近は話をしている。今日は絵について、話した。私が昔美大に行きたいと言っていた時に父に「食って行けない」と大反対にあったのだが、当時は理由がよく分からなかったそれの話もした。

 

当時のことを『「食って行けない」と言って反対してしまった』と言っていた。父は私なんかよりもずっと絵が上手くて造詣が深い。好きなのだ。田中一村とか、もう何か忘れたけどとにかく色んな画家を知っていて、彼らが表現したいものとしているものが伝わってくる作品に圧倒される、と言った。自分が表現したいものを知ることつまり、自分をよく知ろうとすることが出来た人だから表現できたもの、そこを感じ取れるものこれぞ「芸術」。そう思うからこそ、何も美大に今行く必要はない(美大に行ったからと言って、「芸術」ができるという保証はなく、更に生きてるうちに評価されることも稀なので、むしろ「食えない」可能性の方が高い、実際にその時期たまたま父の周りにとても多かったのでもはやこれは感覚ではないのかもしれない、そういうある種賭けに娘を出すのはエゴと分かっていながらもどうも出来なかった)というのがあの時言えなかった父の自論らしい。母は思いっ切り芸術系の大学を出ているというところからも我が家ですら諸説あるが、母がよく言うのは、学校は「方法」しか教えてくれない。本当にそうなのかもしれない。方法すら知らなければそもそも表現が出来ないと言うが、最も中身がないのに方法を知っていても仕方がない、という。(しかし中身と方法の育成についてはニワトリタマゴであることには間違いないので、方法を先に学んだと感じた母は中身の重要性を説くのだろう。要するに、教えを乞うだけでなく「頭を使ってよく考えること」が1番大事ということだ。)父の当時の言い分も、一理あるな、と今なら思う。かなりの硬派で偏屈だけど。当時の私は何となく美大カッコいい、が志望理由の大半を占めるものだったもの。

 

一理あるなと思えるのにはもう一つ理由がある。私自身が良いと思うもの、心打たれるものは、目を背けたくなるほどのリアルを感じるものであり、父の言う「芸術」に近いからだ。リアルを感じるには、精緻に自分の感情と向き合わなければならない。そこに少しでも嘘や見栄、誤魔化しがある途端にリアルとは正反対で稚拙なものに感じるようになった。

 

父も私も、大変不器用だ。互いに思っていることを正しく口にすることすら出来ない。しかし、高校生当時の私に今日の話は確実に分からなかったし、父も自分の意図を上手く言えなかったのかもしれない。それが「伝わる」ようになるまで、互いに表現が上手になったのかもしれないと思った。

 

遅すぎるなんてことはないと思う。どんな小さなことでも自分の思ったことや相手の言ったことを忘れないで、考えることをやめないでいたい。やっぱり「伝わる」「分かり合える」ことはとても嬉しいから。

 

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ラブコメディは絆創膏

どんなに満たされていようが、人の心ってものは、ふとしたきっかけでどうしようもなく寂しくなる時がある。例えば体調が悪い時。転んで膝を振り向いたら絆創膏を貼れば良いけど、心が寂しい時は何をすれば良いの?空いている穴を元通りに埋めたくても、何で埋めたらいいか分からないのでは結局、埋められないのだ。

 

という時、私は、それを埋めようとしなければ良いのではないかという結論に至った。そんな穴があるということを、一瞬でも忘れたら良い。忘れてみればどうでも良かった、ということがよくある。他人を巻き込んでかえってその穴を大きくする前に、一旦忘れるということをしてみるということを、覚えた。

 

そんな時にラブコメディは絆創膏になる。絆創膏は、傷口を塞ぎはしないけれど、傷口がそれ以上悪化しないように守る。塞ぐか塞がないかは当人次第だけど、実在しない人間同士による絶対に誰にでも理解できるハッピーエンドのそれは、訳の分からない寂しさを擬似的に忘れさせてくれる。それでいい時も、ある。

 

(でも今日はそれでは足りなくて、友達と電話もしたら、埋めたかった穴が埋まったどころか溢れかえった。そういう時だってあって良いじゃん。)

 

エンタメとは

作品の中で個々人のキャラクターや心情が分かるように伝えるもので、文芸とはそれらを考えさせる余地を与えるものだということを聞いた。なるほど。私が徒然と書いているこれは、自分からするとエンタメでしかないけれど、読む人からするともしかすると文芸なのかもしれない。と、怠慢な暴論で舞い上がっている。

 

ただただ忘れたくないという衝動に任せて書いているだけだからこそ、友達や知らない人がそれを読んで、たまに感想を送ってくれるのを見るのは(友達にとってこれはエンタメなのか文芸なのか、知る由もないが)とにかくとても面白い。

 

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大富豪と末っ子

トランプが分からない。小学生じゃあるまいしとあまり言い出せないまま23になったので数の順番ですら分からない有様。そんな私は昨日、友達と大富豪をした。

 

皆が言ってる意味が分からない。皆盛り上がって何か「革命」とかなんかやたらカッコつけて言いながらカードを捨てて行くけど、めちゃくちゃ悩んで捨てられたカードから誰が何を持っているか推測しながらやってるようだけど、何をどう、いつ出せば良いんだか分からない。先に上がった友達が私の手札を見て教えてくれたり、これは今出せるのかといちいち確認しながら教えてもらいながらなんとかやっていた。でも次第に皆が白熱してくると、厄介に思われてないか心配になってしまった。

 

そんな時の私はまず、カードが配られて「ジョーカー」「スペードの3」がないか確認する。ないと安心した。私がそれを持っていても猫に小判、無用の長物になるから、多分「革命」とかしたいんだろうに、楽しさが半減したと思うんじゃないだろうか?というように思えてしまっていた。ほとんどどこ行っても長女だし上の従兄弟とはゲームボーイばっかりしてたから多分だけど、帰省して従兄弟達と遊ぶ末っ子は本当はこういう気持ちになって泣いてしまうんだろう。皆と同じように楽しみたいのによく分からなくて同じように楽しめない、漸く理解できて来ても皆のスピードには到底ついていけない、ただただ邪魔にならないようにしか出来ない身勝手な疎外感に泣いてるんだと思う。でももう23、色々ありますもん、もう立派な大人だよ、末っ子みたいに駄々捏ねて泣く訳にはいかないわ。誰もなんとも思ってないかもしれないけど。取り敢えず、出来なきゃ、覚えれば良い。

 

トランプは3から始まって王様のキングは13女王様のクイーンは12皇太子のジャックが11。貧民とか平民ばっかじゃつまらないもん。革命とか言ってオォと言わせてウワァ〜と困らせたいもん。次こそは、と意気込んで、まずはここから、忘れないように帰り道1人反芻している。

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