18歳の自分からの手紙

が届いた。

手紙を書いたその頃の私は、進路が決まってなかった。国立後期を受けていて、その結果が出てなかったので、どこの大学に行くのやら、滑り止めの大学に行くのか、浪人するのやら、とにかく不定だった。

傍目には第一志望に受かった人も見えていて、行きたい学校のために浪人を決めた人もいた。そんな中で私はただひたすらに強烈な劣等感を感じていた。

当時の私の家は「勉強」一色だった。勉強して、いい大学に行くことが人生の全てだった。親は勉強が嫌いな私を毎日責めた。受験後は第一志望に合格した子と比べられたりした。大学入学おめでとうとかも普通には言われなかったかも。親は世間的にいい大学に行って、そうするといい未来が確約されると信じていたし、今思っても半分以上は正しいと思うけど、過激にそれを押し付けられていたこと、そしてどこかでは期待に応えたかったはずなのに応えられなかった自分が猛烈に恥ずかしかったことをすごく覚えてる。

 

当時の自分には勉強がとても自分のために頑張るものとは思えなかった。私の好きな時間を抑えつける、ものすごく嫌なものだった。せめてもの反抗としてなぜか勉強をしない選択をしていた。変に拗らせて自分らしさとか考えてた。似合わないのに前髪とか短く切って。全然意味わからない。

 

そんな自分が書いた、未来の自分のための手紙。読みたいわけがない。

それがよりによって当時の「敵」であった母親に開封され、写真が送られてきた。

 

中身はいろんなこと書いてあったけど、「しにたい」とひらがなで書いてあった。そこに、なぜか自分で「いや、とにかくなんかやり続けろ!」と追記していた。何を思ったかボールペンで書いていたから、進路不定の出来損ないみたいなその時の劣等感を思うままに書いたんだろうが塗りつぶすこともできず、苦肉の策で自分を励ます形にしたんだろう。なんかちょっと健気で泣きそうだった。そしてとにかく一人暮らしを希望していて、家から解放されたいと強く願っていた。

18歳の私は、とにかく自分のやってみたいことが全然できなかったことへのコンプレックスが強かったこともなんとなく思い出した。

 

28歳の私が思うのは、やっぱり今でもその時どうしたら良かったのかは分からないや。でも、そんな18歳の強い反動もあってか今は自分がやってみたかったことをほとんどやれていて、楽しいよ。念願だった軽音サークルにも入っていろんな景色も見たし、だいぶ大人になってからずっとやってみたかった芝居とか始めたりしてさ。勉強嫌いなのに最後までよく頑張ったよ!今は人並みに働いてる!しかもあなたが勉強が嫌いすぎるから浪人は諦めて滑り止めだった学校に行くことを決め、劣等感を抱えながらも漠然と「そういえばマーケティングとかやってみたい」と思って選んだ学部からまさに今そんな感じの仕事してます!そしてなにより、一人暮らし、してるぞー!!!

 

そして18歳の敵だった母親。手紙を開封した母親から。なんと謝られた。「あの頃はごめん」と。びっくりした。

でもその後だんだん複雑な気持ちになった。私が長女だから母親も母親一回目。不安だったよね。だからこそ厳しくしてくれたんだよね、と今ならちょっと同情できる28歳の自分がいます。ほんのちょっとだけね。

18歳の自分は母親にごめんって言われたこと信じられないだろうな。でも同時に当時ライブを観に行ってた赤坂ブリッツの舞台に立ったりしたことも信じられないでしょ?しかもこれ、その"滑り止めの学校"で出会った人たちが連れて行ってくれたんだよ。全然悪くないっしょ。ふふふ。

 

最近やっと18歳あたりで抱えた劣等感から解放されてる実感がある。それが10年かぁ。とか思っています。18歳の劣等感を超えても多分色んな嫌なこととかもまだあると思うけど、未来の自分が多分なんとかする!38歳も48歳もその先も頑張って生きてこー!

犬のセーター

大人なのに久しぶりに泣いた。理由は「帰省したらお母さんが優しさから私の特別お気に入りのセーターを洗濯機で洗い(洗わないでと言っていたけど)、縮めた上に直そうとしてさらに縮めてサイズが犬の服くらいになり、再起不能にした」ことがきっかけというなんとも子供じみた内容なんだけど、お母さんがなぜか「ごめん」の前に逆ギレしだしたりして、気がついたら泣いてた。

自分でも何で泣いたのか分からなくて困惑した。そもそも私は物が壊れたり無くしたりすると強い不安に駆られるという特性があるにしろ、泣くほどではない。お母さんは謎の逆ギレの後、私の回復よりずいぶん先に「ごめんね...」となって縮めたセーターくらい縮こまってしまったけど、申し訳ないけどそれが何にも効かなかった自分も非常に情けなくて、夜寝る時も自分では分からないどんよりとした気持ちが続いてちょっと泣いてた。

朝起きても、昨日よりもさらに小さくなったセーターが目に入ると泣きそうになったり、あからさまに話題を逸らそうとするお父さんに腹が立ったりしていたが、妹が起きてきて、リビングに干してあったちょっと色が似てる小さいぬいぐるみを見て、「目が悪すぎてこんなに縮んだのかと思った!」と笑ってて、それを聞いた瞬間堰を切ったように大爆笑してしまった。いや、何かに大爆笑させられた、というのが正しいのだろうか?とにかく今までの理由のわからないどんよりとした気持ちが自分の意思とは関係なく蹴散らされるような感覚で大爆笑しながら泣いてた。今度はおかしくて。そしたら全てのどんよりした感情が爆散して消え去っていって心を支配していた物がなくなり、ふと我に帰り、犬のセーターになってしまったお母さんにごめんね、もういいよ、と急いで言って、みんなで笑った。

私は今日

頑張った。やらないことやると本当に疲れるので、それが終わる瞬間まで本当に本当にゲッソリだが、その分終わったらすごく良い気持ちだ。なんだか最近は、そこら辺も緊張する自分と上手く付き合えているような気もする。

 

あぁ、緊張するなと思う時には、今まで何度緊張することがあっただろう、と思うようにしている。そして、それで社会的に死んだことあっただろうか?別にない。何回もあったピアノの発表会だって、数学で2点取ったって、その隠蔽が親にバレたって、詰め込んで徹夜に次ぐ徹夜でその日を迎えた幾度の試験だって、すごく意気込んだライブだって、たとえ大失敗してもその後別に死にやしなかったから、今回も大丈夫。やってきた事しか本番でしないし、それ以上のことをやるなんて私そんな度量ないし。...と、まとまらない自分への励ましを続けながら深呼吸をしてしまえば、平気だ。

 

今日は本番中に襲ってくる色々に押しつぶされそうになったりして、色々ともっともっと考えられたところやあれはダメだったなと思うところは多々あったけど、とりあえずその時の自分ができ得る「一生懸命」は200%出来たと思うから、そこだけは自分を褒めたい。ラーメンでも食べて、そこからまた考えようと思う。

多分大丈夫

最近は多分、色々と大丈夫になってきている気がする。仕事をすれば辛いことばかりだったし、対人関係だって、もう心は爆発してるのに我慢したり、実家にいた頃に地味にやりたかった色々なことが変な形で捻じ曲がって出てきたりして、大変だった。けど、最近は色々と多分大丈夫なのだ。

 

大丈夫って何なんだ、と思ったりするけど、言いたいことが言える、やりたいことができる、嘘つかなくていい、そういうことのようなものだと思う。確実に図太くなった。昔の自分のブログを見返したりすると、ほんとにこいつ仕事辛い生きづらいしか言わないな!と思った。でも、辛い人って滑稽だから面白い。変なジョークみたいなのつけたりして。(自分、プライド無駄に高いんで。)

 

でも、今は、こんな私にも色んな友達が増えた。たくさん。うれしい。飲めない酒を苦い顔で飲んでるうちに、なんか飲めるようになったりしたし。飲み会で何喋ったら良いのかよく分からなかったけど、今は多分ちゃんと喋れてるし。そういった色々が、「大丈夫」になってきた!という自信に変わり、本当に大丈夫になるんだと思う。

 

私、次は、ちゃんと「嬉しい」「楽しい」「大好き」を声に出してみんなに直接言えるようになりたい。多分大丈夫だと思うから。

そう、久しぶりに

叱られた。

正確に言えば別に叱られた訳ではないのだが、強く指摘されたことが久しぶり過ぎて、脳内で「今、私は叱られてるんだな」と思った。

 

その時は「なぜ私が」にも似た感情を持ったのだが、が、叱られたことの意味を何とか探ろうと数日考え込んだ先に、段々糸口が見えてきて、「あっそうかも?」と何となく頷ける気がした。そのうちに感謝に代わってきて、私が言えば分かると思って言ってくれたんだ、などと思い上がりにも近い感情になってきた。

 

お調子者なのだ。すごく。そしてハイパーポジティブ。若干の器用さの上にこれなので、少々勘違いする節があるので、今回のようにちょっと叱られた方がいい。全肯定されたら怖くなる。分かった気になっちゃう。だから、ありがとうございます。ちゃんとそれを自分なりに消化することに専念しようと思う。

良い役者は

「一緒にいてくれる人」だと思う、と、聞いた。私は実体験がなくてよく分からないし、あぁ、こういうのが良い役者か、というものを感じられたこともない。でも何となくわかるような気がしなくもない。拙い発想力で考えるに、周りを見て合わせる、相手のセリフをアシストする、声動き体の全てを操って足し算引き算する、そういったことができる人の類なのではないか。客観視できていないといけない。自分が!自分が!ではいけない。 自分の頭から作られたものではないある意味嘘っぱちのセリフを吐きながらも時と場合で自分を使い分けて引いたら出たり...相当技量がないと出来ない。そして何より、そんなことができるのは人が好きな人だ。

...これは役者だけではないかもしれない。全て、人と協力すること、仕事バンド全部に通じているのでは...?私は超弩級の浅はかなので、何でもすぐに一般化することを加味しても、これはなかなかこの世の真理に近いかもしれない。

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この間、東京乾電池の舞台を観た。面白かった。下北沢駅から自宅に向かう帰り道、壊れた機械のようにずっと「面白かった」を文字通り心で反芻した。何が、とはもはやよく分からない。全部、一つ一つのセリフや動き、やりとり、とにかく面白かった。みんな、一緒にいた。何かの世界をこさえて1人で暴走する人はいなくて、お互いがお互いを信頼している安心感の上で、全員が同じ景色を見ながら、それが故のアドリブ?(のように見えたけどそうじゃないかも」などを交えて繰り広げられる壮大なものを見たような気がした。なんなら自分もその舞台の一部にいた気さえした。(本当に私は浅はかで単純だなと自分でも理解しているのだが、)良い役者たちってもしかしてこういうこと?と思った。ちょっと前の私には到底無理な話だったが、社会の荒波に揉まれて良くも悪くもだんだん丸くなりつつある自分なら、そういう人類に近づけるかも..............?しれない。

服の旅

私は服が好きだ。でも、別に何年代の何がどうこうみたいな話は興味ない。身勝手に色んな系統の心ときめく服を採集しては、色んなメイクや髪型や帽子を組み合わせていたいだけだ。その服が自分を色々なところに連れて行ってくれる気がする。初対面でなかったとしても他人の印象が「それ」に引っ張られるわけで、勝手に「そういう人」になるから、自分も予期しない何かとして扱われるからだ。もはや最近は街を闊歩しているだけでも良い。ウォーキングする街に馴染むとか馴染まないとかでも楽しい。

 

実家にいた頃は、またそんな変な服着て!とか言われていて、自分の連れていかれる先が色々なリスクから守られていたり、似合う服を教えてくれていたりしたけど、だんだん色々分かってきて実家も出たから、自由にこの旅みたいなものを楽しんでいる。もはや実家を出てからはどんな格好しようと親も何も言わなくなったが。

 

ちなみに今日は「職業年齢不詳、夏祭りで買った金魚をたいせつに育てていそうな人」な感じだ。これで舞台を見に行く。そうすると、演技っていうある意味嘘っぱちをしてる人となぜか観てる側も嘘っぱちっていう、でもそれでも感じる何かは本物なんだろうなみたいな、そんな感じになるかなと。

 

他に最近気に入って着ているのだと、「謎の世界観のヒッピーっぽい格好で、薄暗くてドリームキャッチャーとかがぶら下がってるお香臭い部屋に住んでるが、よくわからない人からするとチチカカ好きそうとか言われそうな人」とか、「休憩中ロックダンスしそうな調査団もしくは作業員」とか、はたまた普通に「会社員」とか、その設定の重さ軽さは様々だ。会社員はもはや本性だけど、あまりそこ単体に割く資金が薄いし別にそれでも許されてる気もするので、非常に雑だったりはする。

 

どんな身なりをしていようと、あくまで自分の想像力の範疇でしかないから、感じるそれや感じられるそれは自分の中身の本物なんだろうと。そのノイズを大袈裟にすればするほど、中身が詳しく見えるような気がする、っていう言い訳かもしれないけど、とりあえずそれを楽しんでる。説明のし難い自分の趣味だ。