smells like dog breath

今日は歩き疲れた。普段しないこともしたし、普段履かない靴も履いた。時間を潰すために歩いた。疲れ果てたので、電車に乗り、椅子に座った。一息つきたかった。でも、座るや否や、臭うのだ。臭い。臭すぎる。まるでそれは歯を磨かれていない犬の息の臭いだ。この臭いの発生源はどこだ。右隣だ。右隣のおばさんがプレイリストを並び替えている。...お前か。私は疲れている。心に余裕がない。言葉が尖る尖る。くせぇんだよ!お前はきたねぇ犬かよ!!心の中で精一杯罵声をあげていたら、覇気か偶然かきたねぇ犬はすぐに代々木で降りてった。

re:ラブコメディは絆創膏

昨日、やっぱりそうだなと思った。何がって訳じゃないけど、いっぱいいっぱいになって何となくツラい、そんな毎日を頑張って生きている中で、心にぽっかり穴が空いたりする。でも私は大人なので、泣いたりしない。でも、心はとっくに大泣きしてる。好きな音楽なんて聴こうもんならほんとに泣いちゃう。そんな時に、どうでもいいラブコメディを観る。

 

決まって主人公は綺麗なのに意地っ張りで付き合うこともままならないまま婚期を逃し続けていて、突然時が止まって風が吹いて、素敵な相手が現れるが、最初はなぜかすごい嫌い。2話くらいまで意地っ張りなので素直になれなくて、なんか3話くらいで素が出て付き合って、4話で突然元カノなどが登場して傷心して、「ちょっと距離を置こう」なんて言われて泣きまくってたけど、そう全部タイミング!私は今を生きてる!過去なんか怖くない!友人の助けにより"最強無双モード"になった主人公は、最終話で結婚する。ひどい時だと登場人物の全員がそれぞれに結ばれたりする。最終回残り15分まで大喧嘩してたって、大丈夫。何故だかわからないけどあいつらは絶対に仲直りする。私調べによると、どうせ大体こうだ。なんてピースフルな世界。

 

でも、とにかくみんな寂しくて、誰かに寄りかかっていたいところ、自分を偽らずにいられるとき、幸せになるところ。解決の道を開くのはいつだって時間と友達なところ。でも最後は自分次第なところ。くだらないながらも、これは真理なのだと思わせられる。「重いかな?」とか言ってる時は、もはや自制が効かなくなっているので、あっという間に右側が埋まったトーク画面、消したはずの記憶の遠くにうっすら見える。とうとう溜まりに溜まった本音が爆発した時には、大体が修復不可能になってる。またやっちゃった。友達の声が聞こえる、「だから言ったじゃん。」みんなずっと最終回でいられたら良いのにね。いや、そんなのあり得ないか。色んな人の色んなストーリーが、毎日終わったり始まったりする訳だから。 

 

ブコメディの世界は、素直な自分をさらけ出せた時、みんな幸せになる。そんな、フィクションなようで実にリアルな予定調和が、終わりの見えない謎の苦しみから一時的に自分を解放してくれる。昔は一丁前にくだらないと思っていたが、くだらないから良いんじゃないか。ネガティブ思考という名の自傷行為を止めることで、傷が治ることもある。

 

画面越しに観る自分が1人でいることも気が付かないくらい、「気になる相手とご飯を食べたり尾行したりそれによって泣いたりしても20:56って何?体感1:00なんだけど!」 とかヤジを飛ばす。ふと携帯を見ると現実世界はもう3:00だったりする。私の中の主人公はこう呟く。「はぁ〜〜〜、明日も頑張るかぁ。」

山のすゝめ

ちょっと前だけど、山に登った。

 

私にとって登山は高尾山ぶりなもので、登山靴を前日に買うくらいには縁遠いものだった。

そもそも運動が好きじゃない。日常生活で働くというだけでヒイヒイしていて、休日は寝て過ごすような人間だ。

それが、友達に連れられて、突然登ることになった。

登山計画書に父親の名前を書いた時に、「登山中に遭難」「滑落死」などの、記憶の奥底にあった断片的な朝のニュース番組が突如頭の中を駆け巡った。そして登りはじめた時、雨に降られて、早々に怖くになった。

f:id:sha_dats:20231005091111j:image

怖さも雨も慣れてきた頃、雨も止んで山小屋に着いた。たまたま居合わせたおばさんと協力して温泉の蓋を開けて、お湯に浸かった。すっかり「裸で一緒に重い風呂の蓋を開けた仲」になったので、お湯に浸かりながらすこし話をした。

f:id:sha_dats:20231005091145j:image

談話室で、おじいさん2人組の話を聞いて、暖炉を囲み、いつもなら無用に1日を使い果たしたくて遅くまで起きているのに、自然と就寝時間に寝た。

朝は山の冷たい水で顔を洗って、朝ご飯を知らせるラッパの音を聞きながら朝食会場に向かった。そそくさと朝食を食べ、野湯に浸かる友達を眺め、頂上に向けて出発する。

昨日より無意識に足取りが早くなった。苔蒸す地面、土、大きな木。鳥の声と風の音。私の足はズンズン進んだ。冷たい小川の水を飲んで、また歩く。パッと景色が開いた所で太陽を浴びて、「生」を感じた。私は今、生きている、と。

f:id:sha_dats:20231005091707j:image

普段つまらないビルと自宅を行ったり来たりする中に閉じ込められて、すっかり生きているという感覚が薄くなってしまっていたことに気がついた。別にそんな感覚がなくても生きられるのだけれど、山の中ではその感覚に喜びを強く覚えた。

ズンズンと無心で登っていくと昨夜の「裸で一緒に重い風呂の蓋を開けた仲」のおばさんとすれ違った。「あぁ!あの時の!!」と声をかけてくれた。また少し進むと談話室のおじいさん2人組にもすれ違った。「若い者は歩くのが早いなぁ」とボヤきながら登っていた。山小屋の談話室に書いてあった「一期一会」とはこのことかと、談話室の下にこの言葉を記した先人とシンパシーを感じた。

f:id:sha_dats:20231005092112j:image

木漏れ日の道を抜けると、辺りが開けて来た。少し休憩して、また登る。岩の道や急勾配を抜けて、頂上が見えてきた。ふと後ろを振り返ると、登ってきた道が見えた。朝のニュース番組のフラッシュバックなんかよりも、達成感を感じた。その達成感を燃料に、また登る。既に頂上に着いて降りてくる人とすれ違う。頑張ってね、と言われ、また登る。そしてようやく、頂上に着いた。

頂上の景色は、普段パソコンを見つめている目では感じることのないパノラマが広がっていた。鮮やかな空の青、今にも飛び乗れそうな白い雲、生い茂る緑、降り注ぐ太陽の光。有機ELでは表しきれない、それはそれは綺麗な景色だ。達成感の中で、お湯を沸かし、カップラーメンを食らう、その旨いこと。

f:id:sha_dats:20231005094133j:image

山頂の感動もそこそこに、登ったものは降りなければいけない。若干の疲れを感じつつも、下山は「山頂ハイ」の中で、あまり記憶にない。岩の道と急勾配を降りるのが異様に怖かったことと友達は疲れて変な歩き方だったこと、まだあるの?と30回くらい発したことくらいだ。

なんだかんだ降りて行き、朝のニュース番組がフラッシュバックしていた登山計画のポストを見て、皆で下山の喜びを噛み締めた。

 

もし、生きるのに辛くなったら、山に登ろう。そんな大袈裟なことを考えながら、山を後にした。

最近は

飲酒をすると、感情が増幅する。よく、酔っ払うと違う人格が出来るとか言う奴がいるが、あれは嘘だ。ないものが現れているのではなく、あるものが増幅しているのだ。甲州街道を歩きながら、誰も自分を見ていないことを良いことに、爆音で音楽を聴きながら泣きながら歩く自分も紛れもなく自分だし、楽しいな〜と呟きながらにたにたしているのも自分だ。増幅した感情を操る自分の感覚を、酔っ払ってない自分が思い出して、素面でも少しずつ感情が増幅した人格になりつつある。

逃避行的浮遊

仕事にしろなんにしろ、最近は何かと気にかかることが多過ぎて、空を飛びたい気持ちになっていた。小さい頃から疲れると空を飛ぶ夢を見る。もうじき見るだろう。

苦しいと思う心を自分で握りつぶして、自分を更に苦しめる癖がやめられない。ふと固く握ったその手を開く時、その瞬間はいつも突然訪れる。今日はふとバスの外で夏の空に船が浮かんでいたのを見た時だった。目を閉じると体より先に心が浮遊した。船みたいにぷかぷか浮かんで、大きく息を吸ったら船よりも早く飛んでった。カメラじゃ捉えられないスピードで。全身の血すら早く流れて行くのを感じる。目がカッと開いて、ものすごく遠くの世界を見て胸が高鳴る。どこまでも広く青い空も深い海も己のものだと言わんばかりに、手を広げている。

誰かに寄りかかることが上手ければこうもならないだろうか?ただ不器用な哀しき怪獣なことくらい分かってるけどうまくできない。だからたまにこうしてイメージの中で、1人で空を飛ぶ。

 

f:id:sha_dats:20230807102506j:image

できるだけ

最近友達が増えた。私にとってはとても前進だ。

人とうまくやるには、「正しさの証明をしないこと」、会社の人に言われたこの一言に、結構納得した。

今まで、自分にとって正しいかそれ以外かで物事を見てきた気がする。例えば浮気をした人を前に、どう思うか?と聞かれたら「ダメでしょ」と言って真正面からその人を嫌う、みたいな。感情も顔に出やすいので更にキツい印象を与える。でも、人によって色んな事情があって、自分の考え得ない思いがあるから、自分の出した解はその人にとっての正解じゃない。

出した解が近しい友達と違ったって良い。それはそれ。当たり前なんだけど、他の人は小学生でそれを学ぶんだろうけど、私は今それを学んだ気がした。

無知の知とはよく言ったもんだ。頭が悪くて色んな可能性を考えられないから、自分の視点だけで「正しい」とか「正しくない」とか、了見が狭いからこそジャッチしたくなるんだ。

次は、人を褒めることとか、楽しいとか嬉しいとかをちゃんと伝えるってことが出来れば、中学生くらいにはなれるかな。

最近、これもまた新しい友達が、「楽しい」とか「いいね」とか普通に言う。わざわざ口に出したこともなかったけど、そういうのもいいなと思った。

成長速度が人より遅くて、歪な時間はいつまで続くんだろう。その歪な幼さが自分の個性と勘違いする節もあるけど、変わってみたいと思ってる。できるだけ。

続・ライナスの毛布

自傷行為、私は臆病なので体を切り刻んだりはしないのだけど、心を切り刻むことはするかもしれない。心を切り刻み、それでも健気に生きてる自分が可哀想と思うことで、何とか心を保つというか。「それ分からない」「それ嫌だ」言えれば良いのに、言えない、それは自分の根本的な自信のなさで、我慢を美徳と勘違いしてる。でもちゃんと勘違いだともわかってる。自己哀憐で心を保つのは限界があるんだ。健気な自分を思って涙を流す、そんな気色の悪い時間なんて過ごしたくない、当たり前に頭では自分でもわかってるんだ。でも、心がわかってない。そのアンバランスさが辛い。過度に自分でなんとかしようとする。なんともならないのに。誰か、無条件に「毎日頑張ってるね」「偉いね」と抱きしめてくれ、悲しくて虚しくて、やってらんないよ、と思った時、あまりの空虚に自分が更に虚しい。