山のすゝめ

ちょっと前だけど、山に登った。

 

私にとって登山は高尾山ぶりなもので、登山靴を前日に買うくらいには縁遠いものだった。

そもそも運動が好きじゃない。日常生活で働くというだけでヒイヒイしていて、休日は寝て過ごすような人間だ。

それが、友達に連れられて、突然登ることになった。

登山計画書に父親の名前を書いた時に、「登山中に遭難」「滑落死」などの、記憶の奥底にあった断片的な朝のニュース番組が突如頭の中を駆け巡った。そして登りはじめた時、雨に降られて、早々に怖くになった。

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怖さも雨も慣れてきた頃、雨も止んで山小屋に着いた。たまたま居合わせたおばさんと協力して温泉の蓋を開けて、お湯に浸かった。すっかり「裸で一緒に重い風呂の蓋を開けた仲」になったので、お湯に浸かりながらすこし話をした。

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談話室で、おじいさん2人組の話を聞いて、暖炉を囲み、いつもなら無用に1日を使い果たしたくて遅くまで起きているのに、自然と就寝時間に寝た。

朝は山の冷たい水で顔を洗って、朝ご飯を知らせるラッパの音を聞きながら朝食会場に向かった。そそくさと朝食を食べ、野湯に浸かる友達を眺め、頂上に向けて出発する。

昨日より無意識に足取りが早くなった。苔蒸す地面、土、大きな木。鳥の声と風の音。私の足はズンズン進んだ。冷たい小川の水を飲んで、また歩く。パッと景色が開いた所で太陽を浴びて、「生」を感じた。私は今、生きている、と。

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普段つまらないビルと自宅を行ったり来たりする中に閉じ込められて、すっかり生きているという感覚が薄くなってしまっていたことに気がついた。別にそんな感覚がなくても生きられるのだけれど、山の中ではその感覚に喜びを強く覚えた。

ズンズンと無心で登っていくと昨夜の「裸で一緒に重い風呂の蓋を開けた仲」のおばさんとすれ違った。「あぁ!あの時の!!」と声をかけてくれた。また少し進むと談話室のおじいさん2人組にもすれ違った。「若い者は歩くのが早いなぁ」とボヤきながら登っていた。山小屋の談話室に書いてあった「一期一会」とはこのことかと、談話室の下にこの言葉を記した先人とシンパシーを感じた。

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木漏れ日の道を抜けると、辺りが開けて来た。少し休憩して、また登る。岩の道や急勾配を抜けて、頂上が見えてきた。ふと後ろを振り返ると、登ってきた道が見えた。朝のニュース番組のフラッシュバックなんかよりも、達成感を感じた。その達成感を燃料に、また登る。既に頂上に着いて降りてくる人とすれ違う。頑張ってね、と言われ、また登る。そしてようやく、頂上に着いた。

頂上の景色は、普段パソコンを見つめている目では感じることのないパノラマが広がっていた。鮮やかな空の青、今にも飛び乗れそうな白い雲、生い茂る緑、降り注ぐ太陽の光。有機ELでは表しきれない、それはそれは綺麗な景色だ。達成感の中で、お湯を沸かし、カップラーメンを食らう、その旨いこと。

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山頂の感動もそこそこに、登ったものは降りなければいけない。若干の疲れを感じつつも、下山は「山頂ハイ」の中で、あまり記憶にない。岩の道と急勾配を降りるのが異様に怖かったことと友達は疲れて変な歩き方だったこと、まだあるの?と30回くらい発したことくらいだ。

なんだかんだ降りて行き、朝のニュース番組がフラッシュバックしていた登山計画のポストを見て、皆で下山の喜びを噛み締めた。

 

もし、生きるのに辛くなったら、山に登ろう。そんな大袈裟なことを考えながら、山を後にした。