父の表現

昔は殆ど話さなかった父と最近は話をしている。今日は絵について、話した。私が昔美大に行きたいと言っていた時に父に「食って行けない」と大反対にあったのだが、当時は理由がよく分からなかったそれの話もした。

 

当時のことを『「食って行けない」と言って反対してしまった』と言っていた。父は私なんかよりもずっと絵が上手くて造詣が深い。好きなのだ。田中一村とか、もう何か忘れたけどとにかく色んな画家を知っていて、彼らが表現したいものとしているものが伝わってくる作品に圧倒される、と言った。自分が表現したいものを知ることつまり、自分をよく知ろうとすることが出来た人だから表現できたもの、そこを感じ取れるものこれぞ「芸術」。そう思うからこそ、何も美大に今行く必要はない(美大に行ったからと言って、「芸術」ができるという保証はなく、更に生きてるうちに評価されることも稀なので、むしろ「食えない」可能性の方が高い、実際にその時期たまたま父の周りにとても多かったのでもはやこれは感覚ではないのかもしれない、そういうある種賭けに娘を出すのはエゴと分かっていながらもどうも出来なかった)というのがあの時言えなかった父の自論らしい。母は思いっ切り芸術系の大学を出ているというところからも我が家ですら諸説あるが、母がよく言うのは、学校は「方法」しか教えてくれない。本当にそうなのかもしれない。方法すら知らなければそもそも表現が出来ないと言うが、最も中身がないのに方法を知っていても仕方がない、という。(しかし中身と方法の育成についてはニワトリタマゴであることには間違いないので、方法を先に学んだと感じた母は中身の重要性を説くのだろう。要するに、教えを乞うだけでなく「頭を使ってよく考えること」が1番大事ということだ。)父の当時の言い分も、一理あるな、と今なら思う。かなりの硬派で偏屈だけど。当時の私は何となく美大カッコいい、が志望理由の大半を占めるものだったもの。

 

一理あるなと思えるのにはもう一つ理由がある。私自身が良いと思うもの、心打たれるものは、目を背けたくなるほどのリアルを感じるものであり、父の言う「芸術」に近いからだ。リアルを感じるには、精緻に自分の感情と向き合わなければならない。そこに少しでも嘘や見栄、誤魔化しがある途端にリアルとは正反対で稚拙なものに感じるようになった。

 

父も私も、大変不器用だ。互いに思っていることを正しく口にすることすら出来ない。しかし、高校生当時の私に今日の話は確実に分からなかったし、父も自分の意図を上手く言えなかったのかもしれない。それが「伝わる」ようになるまで、互いに表現が上手になったのかもしれないと思った。

 

遅すぎるなんてことはないと思う。どんな小さなことでも自分の思ったことや相手の言ったことを忘れないで、考えることをやめないでいたい。やっぱり「伝わる」「分かり合える」ことはとても嬉しいから。

 

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